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 どのような事情、文脈であったとしても“藤原ヒロシ”の名が人々に取り沙汰されるとき、やはり“裏原宿” ——90年代の東京に沸き起こったストリートファッションの一大ムーブメントを乱暴に、けれど、端的に示す単語——との関連で語られることが、いまだに少なくないであろうことは容易に察しがつく。しかし、藤原ヒロシがその存在感を最初にシーンに示したのは、確かに音楽によってであり、それも80年代にロンドンとニューヨークで生まれたクラブミュージックという新しいムーブメントに対し、リアルタイムに最高水準のクオリティで東京から回答した“DJ”としてであったという事実は重い(余談だが、藤原ヒロシが10代の頃訪れたロンドンで、ベロベロに酔っ払ったマルコム・マクラレンから「ヒロシ、お前はニューヨークへ行くべきだ」との教えを受けたという逸話が、筆者は大好きだ)。つまり、クラブカルチャーの世界的黎明期に藤原ヒロシという特異な才能が東京に存在したことは、その後の日本の音楽シーンへの影響は言うに及ばず、クラブという“社交の場”にDJとしてクリエイティブな磁力を与えたという点で、藤原ヒロシはファッションももちろん含めた東京の(サブ)カルチャーシーン全体にハイブリッドでオルタナティブな可能性を与えたといえるだろう(実際、このことが後の“裏原宿”を形成していくきっかけとなるのだ)。
 とはいえ、80年代当時クラブDJとは、アーティストとしては言うに及ばず、ほとんど職業としても世間的には認知されていなかった。“カリスマDJ”であった藤原ヒロシをしても、20代の頃は高級フリーターとしてメディアを使って遊んでいたという方が実情に近かったのではないだろうか。藤原ヒロシがいまなお漂わせる“プロのアマチュア/アマチュアのプロ”といった佇まいはこうした時代にキャリアをスタートさせたことが大きいのではないかとも思う。
 そして90年代に入り、藤原ヒロシは、そのシャープな感受性と同時代感覚をより幅広いフィールドで表現するようになる。特に音楽との関係で言えば、小泉今日子、UAといったメジャーなアーティストへの楽曲制作及びプロデュースを手がけ、その一方で、ネネ・チェリー、テリー・ホールといったアーティストが参加したソロアルバム『NOTHING MUCH BETTER TO DO』(94)をリリースし、『HIROSHI FUJIWARA in DUB CONFERENCE』(95)に代表される深いエコーのなかにメランコリックなピアノの旋律が響く内省的なダブサウンドを独自のスタイルとして完成させもする。さらに、これら音楽シーンにおけるいくつかの革新的な作品制作と並行して、藤原ヒロシはファッションシーンにおいてもナイキとのコラボレーションをはじめ、音楽同様に持ち前のカッティング・エッジなテイストをオーバーグラウンドにトランスレートする画期的な仕事を積極的に行うわけだが、このメジャー/マイナー、マス/コアの二項対立を無化するような越境感覚は、藤原ヒロシの場合、音楽、ファッションといった領域にとどまらず、メディアで披露される本人の趣味嗜好と各種コレクション、あるいは交友関係にまで及び、結果、作品だけでなく彼のライフスタイルそのものに共感するフォロワーを多数生み出すことになる。現在もなお、藤原ヒロシが特別な影響力を持つのは、誰もが知る代表作を持つ代わりに、そのライフスタイルそれ自体が彼の“代表作”であることによるのではないだろうか。言ってみれば、藤原ヒロシの職業は“藤原ヒロシ”なのだ。
 2000年代に至り、藤原ヒロシのファッションシーンでの影響力は、さらに広がり、他ジャンルのアーティストや国内外のセレブリティとの華やかな、そして意外なネットワークをメディアがこぞって取り上げ、東京を代表する“セレブなアーティスト”——かつて“ニューヨークのウォーホル”がそうであったように―としての面がクローズアップされはじめるわけだが、まさに、そのとき藤原ヒロシはDJ引退を宣言する。けれど、それは音楽からの撤退を意味するわけではなかった。むしろ、よりダイレクトに、そして生々しく音楽と触れ合うことをはじめる。ターンテーブルとミキサーから、アコースティックギターとマイクへ。フィジカルなダンスミュージックから、静謐なフォーク〜アンプラグドロックへ。藤原ヒロシは突如、ギター弾き語りをオーディエンスの前で披露し、HFフォロワーたちの度肝を抜いた。もっとも、藤原ヒロシは、その少年時代に姉から聴かされた日本のフォーク・ミュージックをソウル〜パンク〜ニューウェーブと傾倒していった10代後半の頃も、ヒップホップ〜ハウスと最新のダンスミュージックをチェックしていた20代の頃も、愛聴し続けてきたという。そして、この“ライブ活動”のスタートは藤原ヒロシの音楽キャリアに新しい風を吹き込むことになる。ライブ活動開始当初は、ギターの小島大介、キーボードの猪野秀史との3人編成ユニットで藤原のお気に入りの曲をアコースティックでフォーキーなアレンジでカバーするという実にシンプルなものであったが、“藤原ヒロシが歌う”という事実のインパクトは想像以上に大きく、この時期はまだ本人としてはあくまでも余興であったかもしれないが、しかし、少なくないライブのオファーが次々に舞い込むことになる。こうして、前述の2人に加え、曽我部恵一等を含めた何人かのミュージシャンがイレギュラーに参加するセッション的なライブを比較的頻繁に行うようになるのだが、藤原ヒロシが“ミュージシャン”として大きな転機を迎えるのは真心ブラザーズのYO-KINGとのユニット・AOEQの結成、そしてオリジナルアルバム『think』『think twice』(2011)のリリースであった。このときYO-KINGは藤原に「作詞作曲した曲を歌う」ことの意味と魅力を協同作業のなかで伝えたのであろう。これまで他者への楽曲提供、プロデュースの経験、あるいは自身の作品へのヴォーカリストの起用はあったものの、自身の曲に自ら詞を付けて歌うというのは藤原ヒロシにとって初めての試みであり、藤原ヒロシが自身の“シンガーソングライター”としての可能性を発見したのは、やはり、このAOEQを通じてであったのだと思う。
 話はようやく2013年に辿り着く。
 藤原ヒロシはAOEQ以降も作詞作曲を続け、オリジナル曲がまとまったところでレコーディングを開始する。スタジオでの試行錯誤を経るうちにAOEQに至るまでのフォーキーなサウンドから一転、デジタルビートを強調したダンサブルなトラックにキャッチーなメロディが載るというスタイルが選ばれ、最終的に現在のトレンドともマッチしたディスコの再解釈を想起させるサウンドをもって一枚のアルバムとして完成させた。それがこの最新アルバム『manners』である。
 収録された12曲は配信限定シングルとして先行リリースされた『HORIZON』、『かすかなしるし』といったセルフカバーを含むものの、すべて藤原ヒロシによるオリジナル曲であり、新曲では全曲作詞を手がけている。もちろん、歌も。硬質なダンスビートに載ったイノセントなハイトーン・ヴォイスが、率直な言葉とともに美しいメロディを奏でる様は、奇をてらうことなくそのユニークさを引き出している。
 かつて“裏原宿のカリスマ”と呼ばれていた時代、藤原ヒロシは良くも悪くも正体不明であった。何を生業としているのか、皆、わからなかった。何を思い、何を語ろうとしているのか、誰も知り得なかった。けれど、今は違う。この『manners』のサウンドとメロディ、そして、歌詞を聴けば“藤原ヒロシ”が、いま何を愛し、何を憂い、そして、何を求めているか、直感的に理解できるはずだ。そして、“藤原ヒロシ”がどんな人物なのかも。
  だから、“藤原ヒロシの周辺”として、彼の解説をときに義務付けられ、ときに自ら買って出る者としては、藤原ヒロシのプロフィールに“シンガーソングライター、代表作『manners』”とのフレーズが加わるのは、実に喜ばしいことだと思う。
 皆さん。素顔の“ヒロシさん”が、このアルバムのなかにはいます。

text by tetsuya suzuki (honeyee.com / .fatale 編集長)